日航ジャンボ機墜落の鍵握る「オレンジエア」-植草一秀
植草一秀[経済評論家] * * * 1985年8月12日の日航ジャンボ機123便墜落から33年の時間が経過した。私たちは、この事故=事件の「知られざる真実」に迫らなければならない。 一連のオウム真理教事件に伴う死者は29名、負傷者は6000名以上とされるが、日航ジャンボ機墜落事件では乗員乗客524名のうち520名が死亡した。亡くなられた方々のご冥福を、改めて心からお祈りする。この事故=事件で生存を果たした、日本航空CAを務めていた落合由美氏は墜落直後の状況に関して重要な証言を示す。 「墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。」 つまり、多数の乗員または乗客が生存していたことを落合氏は証言している。しかし、公式発表の事故調査報告書は、「救出された4名以外の者は即死もしくはそれに近い状況であった」としている。 両者の間に決定的な相違がある。落合氏は実際に墜落したジャンボ機に搭乗していたのであり、自分自身で現場を体験している。これに対して、事故調査報告書を書いたのは、事故当時の現場を体験していない人物、あるいは「機関」=「組織」である。どちらの説明の信ぴょう性が高いのかは明白だ。 落合氏は飛行機に衝撃音が発生した直後の状況についても証言している。 編集部おすすめ メディアゴンの記事をもっと見る トピックス米軍が発射したオレンジエアが123便にあたり 証拠隠滅のために自衛隊が駆り出されたのは この事件の真相でありますが 中曽根康弘さんや後藤田正晴さんの関与も 取り沙汰されている日航機事故 自衛隊側のオレンジエアの可能性もあり またはオレンジギア 油圧作動不能の場合もあるので たくさんの仮説を 転載しておきました ある仮説から紹介します JAL123便の真実 核兵器に使うプルトニウムが、長野県にある極秘の核施設で取り出されているという話を聞いて、私にはピンとくるものがありました。それは1985年8月に起きた、JAL123便の墜落事故との関連です。この墜落事故は実は、金属疲労による事故ではなく、自衛隊と米軍による戦闘の結果でした。一連の事件を目撃した地元の人々が、何度も入山して航空機の残骸を拾い集め、25年以上にわたって調査を続けた結果、見つかったのは123便の機体だけではなく、米海兵隊所属のプロペラ機RC-130の着陸装置、地対空ミサイル・レッドアイの弾頭部分、黒い塗装で偽装した米空軍所属F-106の機体破片など、膨大な量の残骸だったのです。 JAL-123便が撃ち落された主な理由は、アメリカが誘導した円高に反対していた関西財界の大物4人を暗殺するためでした。1985年8月、アメリカは日本に対して「円高にしてほしい」と申し入れましたが、関西財界の大物4人が強く反対し、再度の話し合いでも物別れに終わりました。しかしこの事件には、実はほかにも理由がありました。実は、123便は「核」を積んでいたというのです。国内で製造した核を積んで大阪に運び、大阪港からどこかへ積み出す予定であったというのです。 アメリカは、日本が密かに核兵器を製造していることを疑っており、その証拠を押さえたいと内偵していたところ、JAL123便で運ばれるという情報をキャッチし、現物を押さえるために黒い塗料で偽装した所属不明機でJAL機を付け狙いました。日本にしてみれば、アメリカを出し抜こうとして核兵器を秘密裡に製造していたので、現物を押さえられると非常に困ります。そこで機体もろとも海中に沈めてしまおうということになり、海上で米軍機に撃墜されるように仕向けたのでした。 しかし、JAL機の機長は思いのほか優秀な人でした。 日本政府は、JAL機側には積み荷の中身を伝えておらず、ただ「貴重なものである」ということで、ベテランのパイロットの搭乗を要求しました。そこで自衛隊出身であり、飛行技術に長けた腕利きのパイロットである「高濱雅巳操縦士」をその任に就かせました。彼は戦闘訓練を積んでいるので、米軍によって尾翼が破壊された時点で、すでに人為的攻撃であることに気づいたようです。すぐさま、高度1000メートル以下の超低空飛行へと切り替えました。この高度ならレーダーに捉えられないからです。ただしそのために、以後、123便は管制レーダーからは消えてしまい、周辺の航空管制官はJAL機を助けたくとも、その機影を追うことさえできなくなりました。ですから異常発生後の正確なルートは、今もってわかりません。(※註:破壊されたのは尾翼ではない可能性大) その後の事故調査の状況から推察すると、羽田にも降りられず、横田基地にも降りられず、海上着床の望みも絶たれ、行くあてを失ったJAJ123便は、突如として現れた自衛隊機に誘導されて、長野方面に向かったようです。機長にしてみれば、「これで助かった」と思ったでしょう。ところが自衛隊機は、JAL123便を助ける気など、さらさらありませんでした。米軍にかぎつけられたことを知り、証拠品である「核」を消すために、追って来ている米軍機だけではなく、JAL123便の乗客もろとも、すべてを消し去ろうとしていたのです。 自衛隊機は逃げまどうJAL123便を誘導し、秘密基地のある高天原(たかまがはら)まで誘い込み、待ち構えていた地上部隊のレッドアイで米軍機もろとも撃墜しました。こうしてJAL123便は、高天原山中にある御巣鷹山(おすたかやま)の尾根へと墜落したのです。そのやり方は徹底しています。JAL123便とそれを追っていた米軍機はもちろん、誘導した自衛隊機、それに諜報活動中であったNSA(米国家安全保障局)の偵察機、さらに異変を察知してついて来ていただけのロシア軍のスホーイまで、ことごとく撃ち落したのです。・・・。 自衛隊は墜落後も徹底した証拠の隠滅を行いました。 事故直後から「おかしい」と気づき、山に入って調査した人がいて、当日、山を縦走していた登山者らの目撃情報などを聞いて回り、その謀略の一端をつかんでいます。それによると、登山者らが墜落現場近くに入った午前2時ごろには、助けを求める人々の声が多数聞こえていたそうです。しかしながら現場は険しい斜面の場所でけもの道さえなく、なかなか近づくことができません。そのうちヘリコプターが飛んできて、何かを撒いたとたん、それまで聞こえていたうめき声や物音がピタッとやみ、あたり一帯に静寂が訪れたそうです。 このヘリコプターの行動について、生存者を残さないために、現場にフッ化ホウ素を撒いたのではないかと、複数の専門家たちが分析しています。その後、事故を目撃した地元の有志たちが生存者を救うべく入山しようとすると、すでに自衛隊がバリケードを築いており、近づくことができなかったと証言しています。なぜ最も近くにいた地元住民より、自衛隊が先に現場に到着していたのか。それが事故ではなく撃ち落したものだということを、如実に物語っています。おそらくその時すでに、核兵器の残骸などの「証拠品」は回収され、闇に葬られたのでしょう。 その事実を突き止めるべく、調査している人の話を聞きましたが、彼は今も狙われています。昨年も電磁波による攻撃を受け、車が大破したと話していました。街中を車で走っていると、急に「ドーン」という衝撃が走り、事故を起こしたわけでもないのに車が突然破壊されてしまったのだそうです。そうかと思うと、守ってくれる人もいて、「つけられているな」と気づくと、必ずと言っていいほどトラックが、自分の車とつけている車の間に割り込み、逃がしてくれるそうです。 何が真実で、誰が見方で、敵が何者か、その実態は正確にはつかめませんが、大きな陰謀が存在することは確かのようです。ちなみに、JAL123便が墜落したのが8月で、その翌月の9月に、ニューヨークのプラザホテルで先進5カ国(G5)による合意がなされました。世に言う「プラザ合意」です。アメリカを救うべく、円高ドル安への国際協調が取り決められましたが、日本は想定される円高不況を乗り切るために、金融緩和へと動きました。つまり公定歩合を下げ、低金利政策を採用し、通貨供給量を大幅に増加させ、社会にお金がジャブジャブだぶつくようにして、景気後退を防ごうとしたのです。 その結果、日本は狂乱のバブル景気へと突っ走ることになりました。 田村珠芳氏書籍より―JAL123便墜落事故の真実 田村珠芳氏の書籍で全ての秘密が解き明かされています。 JAL123便の真実(御巣鷹山墜落事故): zeraniumのブログ http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/jal123-a4a8.html
「日航機墜落事故の真相」 (2)以下に123便事件と少なからず関連のありそうな話題、そして前回の続きを掲載します。 ・事故当夜、基地で待機していると「相模湾で魚雷が行方不明になったので捜せ」との命令があり僚友を含む数機が飛んだ。僚友は見つけなかったが、「別の機が海上の浮遊物を発見した」と語った。―元航空自衛隊パイロットの証言 日航123便事件の約14年前、1971(昭和46)年7月30日に発生した全日空機雫石衝突事故(ぜんにっくうきしずくいししょうとつじこ)時、 大韓航空機撃墜事件・乗客生存説 また日航123便事件の約5年前、1980年 アメリカ・ウィチタのマコーネル空軍基地で、ICBMタイタンIIが訓練中に誤って発射シーケンスに入った事もあった。 「ハイジャック機撃墜法」の違憲判決
2006年2月20日独 実際問題として撃墜の為に中性子爆弾が使われなかったとしても、 ・・・墜落からおよそ1時間半後の20時すぎ、日航からではなく日本アイソトープ協会から事故機にラジオアイソトープ72個が積まれていることが警察庁に届け出された。一部報道機関によれば、後日の調査の結果わかったとされているが、日本航空幹部によれば事故機の部品としてウランが使われていることも事故直後に当局に伝えたという。科学技術庁も当初からウランについては承知していたと話している。 最後に引用する中性子爆弾使用説についても否定し切れない面もあるが、仮にそれが事実を完全に伝えるもので無かったとしても、上記のような事情を考えると事故現場の放射能汚染や環境への影響についての論説は説得力もあり自然な発想だと理解出来、真実の一端を伝えるものであると感じます。 〓1985年8月12日の月曜日JAL123便事件〓 ▼ファイアービー 日航ジャンボ機墜落事故 JAL123便はミサイルにより撃墜された・・・・決して真実が明かされる事はないだろう・・・。 JAL123便
JA8119号機航空事故調査報告書に基づく操縦室用音声記録装置の記録 ・日本航空123便事故 御巣鷹山悲劇の真相(圧力隔壁主犯説への反論) 墜落したJAL123便の遺品の中から座席中央部分の最後部から5番目に座っていた小川哲氏(当時41歳)は、尾翼が吹き飛ぶ6分前、飛行機の窓から123便を追尾するように飛行してくる物体に気がつき、それをカメラに収めています。 1985年8月12日の月曜日JAL123便事件 ・以前起きたカナダ航空の事故では、内圧に耐え切れず「圧力隔壁」に大人2人分の穴が開きました。 ・izaで真相に迫ると思えるブログを見つけました。以下に引用を行います。 条件1:この機のみの特殊要因である。 ミサイル誤射説といえば、突拍子も無い暴論と一笑されそうであるが、旅客機と戦闘機のニアミスやミサイルの訓練中の誤発射事故等決して珍しくない。現実に雫石にて1971年に全日空機を訓練で「敵機と見立てた」自衛隊機と衝突し墜落している。 この事故に限った話でなく、私は自分の仕事においても原因が分からない問題がある場合様々な仮説をまずは立ててみる。 http://ja8119.iza.ne.jp/blog/entry/501879/ ・中性子爆弾使用説へのコメント 筆者は
「中性子爆弾の放射化の影響は21年経ち、むしろ線量が強くなってきている傾向がうかがえます。広葉樹を中心に中性子線が当たるところにある樹木はかれ始めています。樹皮には123便の地獄の瞬間がプリントされ、半径50Kmの埼玉県内では乗客の形に焦げている樹木が散見されます。21年経ってからこの距離で焦げてしまう中性子爆弾の恐ろしさにはただただ驚嘆するばかりです。電柱の張り紙の跡は乗客の形に残り、電柱や街路柱が地獄絵になっています。これは都心や横浜付近でもいくらでも無数に確認できます。事態は深刻です。関東に人が住めなくなります」 21年経ち、むしろ線量が強くなっているということは、能力のない私には、理解できないところですが、御巣鷹山に墜落したときには、私も撃墜されたと思いました。コントロールを失って山に激突、その時にも、中性子爆弾が使われたと思いますが、その時の機内の様子が地上に転写されていると書いておられます。 相模湾から引き揚げた残骸や御巣鷹山からの飛行機の一部は、全部処分されたと聞きましたが、証拠は残しておくべきだったと思われます。この飛行機事故の処理に加わった人の健康診断もすべきでしょう。 最後に(上記と同じページから)引用します。 状況証拠から見た123便 もう一つ中曽根元総理の別荘における盗聴されたとされる発言があります。それが真実であるか否かは闇の中。その中の言葉に官邸からの矢の催促の撃墜命令要請に対して。「私はこんな事のために総理大臣になったわけじゃない」......総理がみぞうの都市部墜落の大惨事を恐れて許可する条件として言い出した。「国民に撃墜を知られないようにできるなら許可しよう」、目撃者が出たらどうしますかに対して「何とかしろ」「殺せという意味ですか」に対して「私をこれ以上人殺しにするつもりか」と怒鳴り「何とかしろは何とかしろという意味だと」怒鳴っていた。 |